考題索引

日本にほん文化ぶんか

第二章だいにしょう 飛鳥あすか奈良時代ならじだい

第一節だいいっせつ 推古天皇すいこてんのう飛鳥文化あすかぶんか

いち仏教ぶっきょう受容じゅよう

飛鳥あすか明日香あすか 6世紀せいきわりから8世紀せいき初頭しょとうまでを、飛鳥時代あすかじだいという。これは歴代天皇れきだいてんのうみやこが、おも大和やまと飛鳥あすか明日香あすか)にあったからである。古代こだい日本にほんでは、天皇てんのうわるごとに天皇てんのう宮殿きゅうでん移動いどうさせていた。この習慣しゅうかんは、現在げんざいでも伊勢神宮いせじんぐう出雲大社いずもたいしゃなどの式年遷宮しきねんせんぐうという神事しんじのこされている。

仏教公伝ぶっきょうこうでん 仏教ぶっきょう日本にほん公伝こうでんしたのは、538ねんか552ねんとされている。このとき百済くだら聖明王せいめいおうから黄金おうごん仏像ぶつぞうおくられてきた。しかし、群臣ぐんしん廃仏派はいぶつは崇仏派すうぶつはとにわかれて対立たいりつしてしまった。そこで欽明天皇きんめいてんのう(509-571)は仏教崇拝ぶっきょうすうはいをあきらめて、仏像ぶつぞう蘇我稲目そがのいなめ(506?-570)に下賜かしした。

物部氏もののべし蘇我氏そがしとの抗争こうそう ところが直後ちょくご疫病えきびょう発生はっせいした。物部氏もののべしかみいかりであるとして、稲目いなめてらはらってしまった。ただし、このあらそいは、実際じっさいたんなる政治権力せいじけんりょくあらそいだったともわれる。蘇我氏そがし物部氏もののべしとのたたかいは、蘇我氏そがし勝利しょうりすることでわる。

なお、日本にほんでは、縄文時代じょうもんじだいなどの太古たいこのぞき、人型ひとがたのものを利用りようした偶像崇拝ぐうぞうすうはいはなくなっていた。現在げんざい神道しんとうでも、人物像じんぶつぞうなどを神体しんたいとすることはほとんどない。

推古天皇すいこてんのう聖徳太子しょうとくたいし

女帝じょてい こうした政治的せいじてき混乱こんらんなか即位そくいしたのが、日本史上にほんしじょうはじ女帝じょていとされる推古天皇すいこてんのう(593-628)である。そして、皇太子こうたいしであり摂政せっしょうにな

学習がくしゅうポイント

1. 仏教ぶっきょう受容じゅよう

2. 飛鳥文化あすかぶんか天平文化てんぴょうぶんか

3. 仏教ぶっきょう鎮護国家思想ちんごこっかしそう

4. 文字もじによる文化活動ぶんかかつどう

った聖徳太子しょうとくたいし(574-622)は、蘇我氏そがし協力きょうりょくして仏教ぶっきょうによる政治せいじをしていった。

日本書紀にほんしょき』によると推古天皇すいこてんのうは、容姿端麗ようしたんれい頭脳明晰ずのうめいせきで、豪族ごうぞくたちの調整役ちょうせいやくだったらしい。実際じっさい政治せいじ聖徳太子しょうとくたいし蘇我馬子そがのうまことによっておこなわれた。

なお、日本史上にほんしじょうには8にん10だい女帝じょてい存在そんざいする。そのうち6にん8だい飛鳥あすか奈良時代ならじだい集中しゅうちゅうしている。みな政権せいけん不安定ふあんていであったとき中継なかつぎである。また、皇后こうごう皇太子妃こうたいしひであったひとおおいが、生涯しょうがい独身どくしんである。

聖徳太子しょうとくたいし政治せいじ 603ねんには冠位十二階かんいじゅうにかい制定せいていし、能力のうりょくによって人材じんざい登用とうようおこなおうとした。しかし、実際じっさいはうまく機能きのうしなかったようである。604ねんには憲法十七条けんぽうじゅうしちじょう制定せいていした。日本初にほんはつ成文法せいぶんほうとされている。ただしいまでいう「憲法けんぽう」ではなく、おも道徳論どうとくろんいていた。「17」とは、『周易しゅうえき』における最高さいこう陽数ようすう「9」と陰数いんすう「8」を合計ごうけいしたものである。

その内容ないようは、儒教じゅきょう仏教ぶっきょう影響えいきょうつよい。第一条だいいちじょうの「以和為貴いわいきとなす精神せいしん大切たいせつにする)」は、『論語ろんご学而篇がくじへん引用いんようで、いま日本人にほんじん愛好あいこうする言葉ことばである。第二条だいにじょう仏教ぶっきょう信奉しんぽうすること、第三条だいさんじょうでは承詔必謹しょうしょうひっきんべている。引用いんよう非常ひじょうおおいが、これは当時とうじすでに大量たいりょう書物しょもつ日本にほん伝来でんらいしていたということである。

遣隋使けんずいし このころ中国ちゅうごくでは、統一帝国とういつていこくとしてずい登場とうじょうした。そこで聖徳太子しょうとくたいしは607ねん小野妹子おののいもこ遣隋使けんずいしとして派遣はけんした。日本にほん冊封体制さくほうたいせいからの離脱りだつはかっている。日本にほん国書こくしょ冒頭ぼうとうは、「日出処天子致書日没処天子ひいずるところのてんしふみをひぼっするところのてんしにいたすひがし天子てんし西にし天子てんししょおくる)」というもので、中国ちゅうごく皇帝こうてい対等たいとう立場たちば主張しゅちょうしていた。煬帝ようだい不愉快ふゆかいになった

が、よく608ねん裴世清はいせいせい日本にほん派遣はけんしている。裴世清はいせいせい帰国きこくするとき僧旻そうみん(?-653)、南淵請安みなぶちのしょうあん(?-?)、高向玄理たかむこのげんり(?-654)などの留学生りゅうがくせい同行どうこうした。かれらはのち大化たいか改新かいしん活躍かつやくする。

さん飛鳥文化あすかぶんか

法隆寺ほうりゅうじ 仏教ぶっきょう受容じゅようされるなかまれたのが、飛鳥文化あすかぶんかである。国際色こくさいしょくゆたかで、中東ちゅうとうやギリシアの影響えいきょうけている。なかでも有名ゆうめいなのが、聖徳太子しょうとくたいし建立こんりゅうした法隆寺ほうりゅうじである。法隆寺ほうりゅうじには仏像ぶつぞう仏様ほとけさま)とばれる中国ちゅうごく北魏様式ほくぎようしき金堂こんどう釈迦三尊像しゃかさんぞんぞう南梁様式なんりょうようしき百済観音像くだらかんのんぞうなどがある。北魏様式ほくぎようしき男性的だんせいてき力強ちからづよく、たいして南梁様式なんりょうようしき丸味まるみがあっておだやかな印象いんしょうをしている。

なお、法隆寺ほうりゅうじは607ねん建立けんりつのち、670ねん全焼ぜんしょうしている。現在げんざい西院伽藍さいいんがらん五重塔ごじゅうのとう焼失後しょうしつごすぐに再建さいけんされたものであるが、それでも現存げんぞん世界最古せかいさいこ木造建築群もくぞうけんちくぐんとして著名ちょめいである。

また、推古天皇すいこてんのう所持品しょじひんだったという玉虫厨子たまむしのずしは、当時とうじ仏堂建築ぶつどうけんちく形取かたどっている。

伽藍配置がらんはいち 豪族ごうぞくきそって氏寺うじでらてていった。寺院じいん伽藍配置がらんはいちは、初期しょき飛鳥寺あすかでら四天王寺してんのうじでは、中国ちゅうごく朝鮮半島ちょうせんはんとうおなじであった。しかし、法隆寺ほうりゅうじ以後いごは、日本独特にほんどくとくのものになっている。仏教ぶっきょう短期間たんきかんのうちに受容じゅようされ、さらに独自どくじ発展はってんをしていたことがかる。

かみ ほかにも高句麗こうくりそう曇徴どんちょう(7世紀せいき)がかみすみ彩色技法さいしきぎほうつたえている。そして、仏教ぶっきょう注釈書ちゅうしゃくしょとして、聖徳太子しょうとくたいしの『三経義疏さんぎょうぎしょ』がかれた。これは日本初にほんはつ著述ちょじゅつである。中国ちゅうごく注釈書ちゅうしゃくしょ参考さんこうにしているが、独自どくじ見解けんかいもあり、貴重きちょう草稿そうこうのこされている。

飛鳥時代あすかじだい生活せいかつ 『隋書ずいしょ倭国伝わこくでんには、当時とうじ日本人にほんじん生活せいかつえがかれている。それによると、かんむり社会しゃかい身分みぶんかみ両耳りょうみみうえらすだけだった。しかし、これが聖徳太子しょうとくたいしのころから、かんむりをかぶるようになり、金銀きんぎん装飾そうしょくをするようになった。また、朝廷ちょうてい演奏えんそうする音楽おんがく日本にほんのものであったという。この説明せつめいによると、聖徳太子しょうとくたいしのころから朝廷ちょうていとし

ての儀礼ぎれいととのえられていったらしい。

一方いっぽう庶民しょみんおおくは裸足はだしで、ふく縫製ほうせいしていない。裁判沙汰さいばんざた盗賊とうぞくすくなくて治安ちあんはよく、人柄ひとがら素直すなおみやびであった。おとこおんな全身ぜんしんいたるところに刺青しせいをしていた。正月しょうがつ一日ついたち射撃しゃげき飲酒いんしゅをするが、そのほか節句せっくにしか中国ちゅうごくおなじで、食事しょくじ直接ちょくせつべていた。葬送儀礼そうそうぎれいでは、したしいひとは、遺体いたいそばうたおどりをしていたとある。

このように庶民しょみん生活せいかつは、邪馬台国やまたいこく原始的げんしてき習俗しゅうぞくのままだったのである。

第二節だいにせつ 律令国家りつりょうこっか形成けいせい

いち天智天皇てんじてんのう天武天皇てんむてんのう

大化たいか改新かいしん 聖徳太子しょうとくたいし死後しご蘇我氏そがしたいして中大兄皇子なかのおおえのおうじ天智天皇てんじてんのう、626-672)と中臣鎌足なかとみのかまたり(614-669)とがクーデターをこし、645(大化元たいかがんねん蘇我氏そがしほろぼした。

こうしてはじまったのが大化たいか改新かいしんである。中大兄皇子なかのおおえのおうじ皇太子こうたいし中臣鎌足なかとみのかまたり内大臣ないだいじんとして政治せいじおこない、僧旻そうみん高向玄理たかむこのげんりとが国博士くにのはかせ就任しゅうにんして顧問こもんとなった。そして、日本最初にほんさいしょ年号ねんごう大化たいか」を制定せいていした。「大化たいか」とは『尚書しょうしょ』や『漢書かんじょ』を出典しゅってんにした言葉ことばである。なお、日本にほん年号ねんごう現在げんざいの「平成へいせい」にいたるまで、ほとんどが漢籍かんせき出典しゅってんにしている。つづいて646(大化たいか2)ねん改新かいしんみことのりし、中央集権国家ちゅうおうしゅうけんこっか目指めざしていく。

こうした改革かいかく文化面ぶんかめんでもおこなわれている。まず薄葬令はくそうれいして古墳こふん造築ぞうちく禁止きんしした。また、天皇てんのう皇太子こうたいしとをのぞいてもがり禁止きんしするなど、習俗しゅうぞく大改造だいかいぞうしていく。ただし、なかなかあらたまらなかったようである。

天武天皇てんむてんのう 672ねん天智天皇てんじてんのう崩御ほうぎょすると、すぐにおとうと大海人皇子おおあまのおうじ(40だい天武天皇てんむてんのう、631?-686)と天智天皇てんじてんのう皇子おうじである大友皇子おおとものおうじ(39だい弘文天皇こうぶんてんのう、648-672)とが内戦ないせんおこなった。これを壬申じんしんらんという。多数たすう

豪族ごうぞく支持しじあつめた大海人皇子おおあまのおうじ勝利しょうりすることになり、飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみや即位そくいした。

天武天皇てんむてんのう律令政治りつりょうせいじ確立かくりつ目指めざして中央集権国家ちゅうおうしゅうけんこっかきずいていった。一方いっぽう復古的ふっこてきでもあった。ながらく途絶とだえていた斎王さいおう復活ふっかつさせ、宮中祭祀きゅうちゅうさいし儀礼ぎれい整備せいびしたので、このころ天皇てんのう神格性しんかくせい確立かくりつされた。

藤原京ふじわらきょう 天武天皇てんむてんのうあと持統天皇じとうてんのう天智天皇てんじてんのう皇女こうじょ、645-703)がいだ。そして、694(朱鳥しゅちょう8)ねん日本初にほんはつ都城とじょうである藤原京ふじわらきょう建設けんせつされる。5.3キロ四方しほうあるこのみやこは、じつ古代日本こだいにほん最古さいこであると同時どうじ最大さいだい都城とじょうでもあった。中国ちゅうごく都城とじょう参考さんこうにしているが、とうみやこではなく『周礼しゅらい』の記述きじゅつ参考さんこうにして、宮殿きゅうでん中央ちゅうおういていた。また、このころつくられた貨幣かへい(「富本ふほんせん)も、とうの「開元通宝かいげんつうほう」ではなく、かんの「五銖ごしゅせんをまねていたようである。

道教どうきょう こうした反発はんぱつするような政策せいさくは、信仰面しんこうめんにもあらわれている。儒教じゅきょう仏教ぶっきょうなどの中国文化ちゅうごくぶんか吸収きゅうしゅうしていきながら、道教どうきょう拒否きょひしている。これはとう皇帝こうてい老子ろうし祖先そせんしょうしていることに関係かんけいするだろう。だから、道教どうきょう思想しそう信仰しんこうは、日本にほんにも影響えいきょうあたえているが、痕跡こんせきかりにくい。

遣唐使けんとうし 701(大宝元たいほうがんねんには天智天皇てんじてんのう崩御ほうぎょして途絶とだえていた遣唐使けんとうしふたた派遣はけんされた。中国ちゅうごくたいしてはじめて「日本にほん」を名乗なのったのはこのときらしい。また、このとしに、ついに大宝律令たいほうりつりょう完成かんせいした。この大宝律令たいほうりつりょうによって、律令国家りつりょうこっかとしての日本にほん完成かんせいしたのである。

白鳳文化はくほうぶんか こうした律令体制りつりょうたいせい構築こうちくとともに発展はってんしたのが、白鳳文化はくほうぶんかである。やはり仏教文化ぶっきょうぶんかなのである。飛鳥文化あすかぶんかちがって、初唐しょとう文化ぶんか基礎きそになっている。これは中国文化ちゅうごくぶんか変化へんかが、すみやかに日本にほんつたえられていることを意味いみしている。

白鳳文化はくほうぶんか代表だいひょうするのは、薬師寺やくしじである。薬師寺やくしじ東塔とうとう金堂こんどう薬師三尊像やくしさんぞんぞう調和性ちょうわせいすぐれ、優美ゆうびさを強調きょうちょうしている。また、最後期さいこうき古墳こふん

である高松塚古墳たかまつづかこふん壁画へきがは、色調しきちょうゆたかなものであり、白鳳文化はくほうぶんかきよらかな印象いんしょういまつたえている。

さん国号こくごう日本にほん」と王号おうごう天皇てんのう

国号こくごう 国号こくごう日本にほん」を名乗なのったのは、天武天皇てんむてんのう持統天皇じとうてんのうときであるらしい。「日本にほん」とした理由りゆうについて『旧唐書くとうじょ』は、場所ばしょちかいからだとべている。

ただし、太陽神信仰たいようしんしんこうとの関係かんけい指摘してきされている。おそらくは両者りょうしゃをあわせた理由りゆうであろう。

王号おうごう 王号おうごう天皇てんのう」の成立時期せいりつじきは、推古天皇すいこてんのう天武天皇てんむてんのうかで論争ろんそうがある。『隋書ずいしょ』は倭王わおう推古天皇すいこてんのう)の名前なまえは「せい阿毎あめあざな多利思比孤たりしひこごう阿輩雞彌おおきみせいはアメ、あざなはタリシヒコ、ごうはオオキミ)」としている。これは大王おおきみ通称つうしょう「アメタリシヒコ」を誤解ごかいして、せいあざなとにけてしまっているのである。「アメ」とは「あめ」のことで、大王おおきみあめとは密接みっせつ関係かんけいしていたのである。

天武天皇てんむてんのうかんがえる場合ばあい由来ゆらい二説にせつある。ひとつは道教思想どうきょうしそうの「天皇大帝てんこうたいてい」からであり、もうひとつは則天武后そくてんぶこうが660(とう顕慶けんけい5)ねんに「皇帝こうていごうを「天皇てんのうごう改称かいしょうしたのをまねたというものである。

なお、「神武じんむ天皇てんのうなどというのは、764(天平宝字てんぴょうほうじ8)ねん淡海三船おうみのみふね(722-785)がまとめてつくった漢風諡号かんふうしごうである。これ以前いぜんは、和風諡号わふうしごう使つかわれていた。神武天皇じんむてんのうならば「始馭天下之天皇はつくにしらすすめらみこと」であった。

第三節だいさんせつ 奈良ならみやこ

いち平城京へいじょうきょう藤原氏ふじわらし

平城京へいじょうきょう 710(和銅わどう3)ねん元明天皇げんめいてんのう(661-721)はとう長安ちょうあん模倣もほうした平城京へいじょうきょう遷都せんとした。「あをによしあおによし奈良ならみやこはなのにほふがごとくいまさかりなり(あおあかいとうつくしい奈良ならみやこは、まるで花々はなばなのようにいまさかえている)」とうたわれた日本にほん古都ことである。平城京へいじょうきょうみやこがあったとき

だい奈良時代ならじだいんでいる。なお、現在げんざい日本にほんで「はな」といえばさくらであるが、奈良時代ならじだいは「うめ」であった。

この奈良時代ならじだいには、かつての豪族ごうぞく貴族きぞくになっていく。そこで台頭たいとうしたのが藤原氏ふじわらしで、藤原ふじわらとは中臣鎌足なかとみのかまたりあたえられたかばねである。この奈良時代ならじだい政治せいじは、この藤原氏ふじわらし中心ちゅうしんにして権謀術数けんぼうじゅっすうう。

和同開珎わどうかいちん 奈良時代ならじだい急速きゅうそくとうをまねていく。とう開元通宝かいげんつうほう模倣もほうした「和同開珎わどうかいちんせん鋳造ちゅうぞうされている。ただし、地方ちほう相変あいかわらず物々交換ぶつぶつこうかん主流しゅりゅうであった。

道鏡事件どうきょうじけん 女帝じょてい称徳天皇しょうとくてんのう聖武天皇しょうむてんのう光明皇后こうみょうこうごう皇女こうじょ、718-770)の寵愛ちょうあいしていたそう道鏡どうきょう(700?-772)が、皇位簒奪こういさんだつ目指めざ事件じけんこった。

769(神護景雲じんごけいうん3)ねん正月しょうがつ太宰府だざいふ祭祀官さいしかん道鏡どうきょう皇位こういにつけるよう宇佐八幡神うさはちまんしん神託しんたくがあったとそうした。称徳天皇しょうとくてんのう側近そっきんおとうとである和気清麻呂わけのきよまろ(733-799)を宇佐八幡宮うさはちまんぐう使つかわし、神意しんい確認かくにんさせることにした。

ところが清麻呂きよまろ報告ほうこくは、皇位こういかなら天皇てんのう子孫しそんてろというものであった。称徳天皇しょうとくてんのう激怒げきどし、和気清麻呂わけのきよまろ別部穢麻呂わけべのきたなまろという名前なまええさせられて流罪るざいとなった。そして、称徳天皇しょうとくてんのう崩御ほうぎょすると道鏡どうきょう失脚しっきゃくしてしまう。こうして易姓革命えきせいかくめい思想しそうは、日本にほんにはれられなかったのであった。

天平文化てんぴょうぶんか

東大寺とうだいじ大仏だいぶつ 平城京へいじょうきょう中心ちゅうしんにしてさかえた仏教文化ぶっきょうぶんかを、天平文化てんぴょうぶんかんでいる。天平文化てんぴょうぶんか盛唐せいとう文化ぶんか基礎きそにしており、貴族きぞく中心ちゅうしんにした壮大そうだいなものであった。

この時代じだい象徴しょうちょうするのが、たかさ16.8メートルもある東大寺とうだいじ大仏だいぶつである。

聖武天皇しょうむてんのう(701-756)の治政ちせいは、疫病えきびょう反乱はんらん飢饉ききんなどがこり、世相せそうくら民衆みんしゅう困窮こんきゅうしていた。そこで、聖武天皇しょうむてんのう仏教ぶっきょうすくいをもと

めて、各国かくこくには国分寺こくぶんじ国分尼寺こくぶんにじ建立こんりゅうし、みやこには巨大きょだい大仏だいぶつつくった。だから、このころの仏教ぶっきょう使命しめいは、国家こっかまもることである。これを鎮護国家思想ちんごこっかしそうという。こうした理論りろん研究けんきゅうしていたのが、南都六宗なんとろくしゅうばれる仏教学派ぶっきょうがくはであった。

大仏だいぶつ完成かんせいしたのは752(天平勝宝てんぴょうしょうほう4)ねんで、開眼式かいげんしきはインドそう菩提僊那ぼだいせんな(704-760)がおこなった。大仏建立だいぶつこんりゅうには大量たいりょう労働力ろうどうりょく必要ひつようになるため、当時とうじ民間みんかん布教ふきょうをして民衆みんしゅうからの信頼しんらいあつかった行基ぎょうき(668-749)を招聘しょうへいした。

神仏習合しんぶつしゅうごう この大仏だいぶつつくとき最大さいだい問題もんだいは、大仏だいぶつ装飾そうしょくする黄金おうごんであった。しかし、百済くだら元王族もとおうぞく百済王敬福くだらのこにきしきょうふくが、いま宮城県みやぎけん黄金おうごん発見はっけんしたことで解決かいけつされた。よろこんだ聖武天皇しょうむてんのう全国ぜんこく神社じんじゃ奉納ほうのうおこなっている。このように奈良時代ならじだいにはすでに神仏習合しんぶつしゅうごうおこなわれていたのである。

このころは神道しんとう仏教ぶっきょう共存きょうそんしていたが、仏教ぶっきょう政治せいじ関与かんよすることになると、次第しだい神道しんとう没落ぼつらくしていく。本地垂迹説ほんじすいじゃくせつという思想しそうつくられ、日本にほん八百万やおよろずかみは、ほとけ権現ごんげんとされていく。

正倉院しょうそういん 東大寺とうだいじには正倉院しょうそういんという建物たてものがある。これは校倉造あぜくらづくりりという倉庫そうこで、なかには聖武天皇しょうむてんのうのコレクションを中心ちゅうしんに、天平文化てんぴょうぶんか様々さまざま美術品びじゅつひん保管ほかんしている。宝物ほうもつなかにはシルクロードによってつたえられたペルシャのものもあり、国際色こくさいしょくゆたかであった天平文化てんぴょうぶんか象徴しょうちょうしている。

鑑真がんじん 仏教ぶっきょう興隆こうりゅうするためにとうからまねいた高僧こうそうで、中国ちゅうごく揚州ようしゅう大明寺だいみんじ住職じゅうしょくであった鑑真がんじん(688-763)である。六回目ろっかいめ挑戦ちょうせんでやっと日本にほんにたどりついたときには、すでに失明しつめいしていた。この鑑真がんじんてら唐招提寺とうしょうだいじである。威風堂々いふうどうどうとした金堂こんどう創建そうけん当時とうじのもので、講堂こうどう平城京へいじょうきょう宮殿きゅうでん移築いちくしたものである。

薬師寺吉祥天像やくしじきちじょうてんぞう 仏画ぶつがとして薬師寺吉祥天像やくしじきちじょうてんぞう有名ゆうめいである。とう衣装いしょうにまとった気品きひんちた姿すがたえがかれている。このころの日本にほん服装ふくそうは、とう服制ふくせいにのっとっていたのである。

さん)『古事記こじき』と『日本書紀にほんしょき

古事記こじき この奈良時代ならじだいには、様々さまざま書物しょもつ編集へんしゅうされている。712(和銅わどう5)ねん成立せいりつした『古事記こじきぜん3かんは、稗田阿礼ひえだのあれ(?-?)が暗唱あんしょうしていた大和朝廷やまとちょうてい神話しんわ伝説でんせつ太安麻呂おおのやすまろ(?-723)が文章ぶんしょうにしたものである。神代かみよから推古天皇すいこてんのうまでを対象たいしょうにしている。

日本書紀にほんしょき』 720(養老ようろう4)ねん完成かんせいしたのが、日本最初にほんさいしょ正史せいし日本書紀にほんしょきぜん30かんである。舎人親王とねりしんのう(676-735)が中心ちゅうしんとなって編纂へんさんした。漢文かんぶん紀伝体きでんたい歴史書れきししょである。日本にほんではこののち平安中期へいあんちゅうきまでに『続日本紀しょくにほんぎ』、『日本後紀にほんこうき』、『続日本後紀しょくにほんこうき』、『日本文徳天皇実録にほんもんとくてんのうじつろく』、『日本三代実録にほんさんだいじつろく』の正史せいし編纂へんさんされた。これを六国史りっこくしというが、以後いごいまいたるまで正史せいし編纂へんさんされていない。

日本書紀にほんしょき』の収録時代しゅうろくじだい神代かみよから持統天皇じとうてんのうまでであり、『古事記こじき』とともに「記紀きき」としょうされる。

風土記ふどき 713(和銅わどう6)ねんには、諸国しょこくめいじて地方ちほう地理ちり伝承でんしょうしるした『風土記ふどき』を献上けんじょうさせている。ほぼすべてが現存げんぞんしているのは、出雲いずも現在げんざい島根県しまねけん)だけである。

よん文学ぶんがく万葉仮名まんようがな

万葉集まんようしゅう 『万葉集まんようしゅう』20かんは、やく4500しゅ収録しゅうろくした和歌集わかしゅうである。編者へんしゃ大伴家持おおとものやかもち(718-785)とされている。うた作者さくしゃは、天皇てんのう皇族こうぞく貴族きぞくから兵士へいし庶民しょみんいたるまで幅広はばひろく、古代こだいからかたがれた万葉まんよううたあつめている。また、題材だいざい旅行りょこう四季しき恋愛れんあい職務しょくむ出征しゅっせいなど幅広はばひろい。

万葉仮名まんようがな このころ日本にほん存在そんざいした文字もじは、漢字かんじだけであった。そこで和歌わかは、漢字かんじの「おん」を借用しゃくようしていている。「い」は「」、「ろ」は「」というようにである。『万葉集まんようしゅう』が代表的だいひょうてきなので、万葉仮名まんようがなんでいる。

懐風藻かいふうそう 『懐風藻かいふうそう』1かんは、日本にほんつくられた漢詩集かんししゅうである。五言詩ごごんし中心ちゅうしんにしており、魏晋南北朝時代ぎしんなんぼくちょうじだい作風さくふう影響えいきょうけている。漢詩かんしつくるには高度こうど教養きょうよう必要ひつようであるため、収録しゅうろくされているのは貴人きじんばかりである。

阿倍仲麻呂あべのなかまろ とう留学りゅうがく科挙かきょ合格ごうかくして玄宗げんそうつかえた阿倍仲麻呂あべのなかまろ(698-770)は、望郷ぼうきょうねんめて『あまはらふりさけみれば春日かすがなる三笠みかさやまでしつきかも(大空おおぞらつきている。むかし奈良なら春日かすがつきおなじだ)』とうたった。仲麻呂なかまろ日本にほん帰国きこくすることができず、とうんでいる。いまでもこのうたは、故郷こきょうはなれた日本人にほんじんがよくおもかべる。

文責ぶんせき黒田秀教くろだひでのり

台日たいにち比較ひかく

とう律令りつりょう日本にほん律令りつりょう

日本にほん律令りつりょうは、とう律令りつりょう参考さんこうにしているが、日本にほん風習ふうしゅううよう改変かいへんをしていた。

おおきなちがいは、中央政府ちゅうおうせいふかたちである。中国ちゅうごくでは皇帝こうてい全権ぜんけんあつめられていた。そして、中書省ちゅうしょしょう法案作成ほうあんさくせい)・門下省もんかしょう立法機関りっぽうきかん)・尚書省しょうしょしょう行政機関ぎょうせいきかん)の三省さんしょうかれ、尚書省しょうしょしょうしたに、実務じつむをする六部りくぶ配置はいちされる。

これにたいして日本にほんでは、天皇てんのうした神祇官じんぎかん祭祀さいし)と太政官だじょうかん政治せいじ)というふたつの組織そしきかれた。そして、太政官だじょうかんしたに、実務じつむをする八省はっしょう配置はいちされる。神祇官じんぎかん太政官だじょうかんよりも格上かくうえということで、中国ちゅうごくでは、祭祀さいし尚書省しょうしょしょうした礼部れいぶつかさどる。このことから当時とうじ日本にほんが、祭祀さいしきわめて重視じゅうししていたことがかるだろう。

これは大和朝廷やまとちょうてい大王おおきみ豪族ごうぞくとが、神祇じんぎ概念がいねんによって団結だんけつしており、奈良時代ならじだい貴族きぞく豪族ごうぞく子孫しそんだったからであろう。また、太政官だじょうかん議制ぎせいであったのは、大和朝廷やまとちょうてい豪族ごうぞく連合政権れんごうせいけんだったことによるだろう。このように日本にほん律令体制りつりょうたいせいは、古代こだい原始的社会げんしてきしゃかい性質せいしつがかなりつよい。

刑罰けいばつ基本的きほんてき日本にほんほうかるい。邪馬台国やまたいこく時代じだいから日本にほん治安ちあんがよかったらしいことと関係かんけいがあるのかもしれない。ただし、天皇てんのうたいする死罪しざいとく祭祀さいしかんするものは、日本にほんほう重罰じゅうばつである。これもやはり大和朝廷やまとちょうてい神話しんわ血統けっとうもとづくものだったからであろう。未開社会みかいしゃかいであればあるほど、こうした傾向けいこうつよくなる。

余談よだんであるが、2001(平成へいせい13)ねん大蔵省おおくらしょう廃止はいしされるとき政治家せいじか官僚かんりょう大騒おおさわぎをした。大宝律令たいほうりつりょうときから使つかっていた「大蔵省おおくらしょう」のえるからである。奈良時代ならじだい行政組織名ぎょうせいそしきめいは、いま文部科学省もんぶかがくしょうの「文部もんぶ」としてのこっている。

確認かくにんしてみよう】

いちつぎ文章ぶんしょうみ、ただしいものを下記かきからひとえらびなさい。

1. 聖徳太子しょうとくたいしは(a. 儒教じゅきょう b. 道教どうきょう c. 仏教ぶっきょう)をあつ信仰しんこうしていた。

2. 日本初にほんはつ女帝じょていは(a. 持統天皇じとうてんのう b. 推古天皇すいこてんのう c. 称徳天皇しょうとくてんのう)で、摂政せっしょうとして聖徳太子しょうとくたいし政治せいじおこなった。

3. (a. 法隆寺ほうりゅうじ b. 東大寺とうだいじ c. 飛鳥寺あすかでら)は、現存げんぞんしているなかでは世界最古せかいさいこ木造建築もくぞうけんちくとして有名ゆうめいである。

4. 『万葉集まんようしゅう』は(a. 大伴家持おおとものやかもち b. 柿本人麻呂かきのもとのひとまろ c. 阿倍仲麻呂あべのなかまろ)が編纂へんさんしたとされており、古代日本こだいにほん歌謡かよういまつたえている。

5. 694ねんつくられた(a. 平城京へいじょうきょう b. 藤原京ふじわらきょう c. 平安京へいあんきょう)は日本最古にほんさいこ都城とじょうであった。

つぎ文章ぶんしょうみ、空欄くうらん適切てきせつ言葉ことばれなさい。

6. 聖徳太子しょうとくたいし中国ちゅうごくに(   )を派遣はけんして、冊封体制さくほうたいせいからの離脱りだつはかった。

7. 高句麗こうくりそう(   )がかみすみ日本にほんつたえたことで、日本にほんでも著述ちょじゅつができるようになった。

8. 舎人親王とねりしんのう編纂へんさんした(   )は、漢文かんぶんしるされた日本最初にほんさいしょ正史せいしである。

9. (   )は口誦こうしょうによってつたえられていたものを、太安麻呂おおのやすまろ成書せいしょしたものである。

10. とうから招聘しょうへいした(   )のためにつくられたのが唐招提寺とうしょうだいじで、奈良時代ならじだい建築けんちくのこされている。

さんつぎ文章ぶんしょうみ、設問せつもんこたえなさい。

11. 飛鳥時代あすかじだいまでの庶民しょみん生活せいかつをまとめてみよう。

12. 飛鳥時代あすかじだいから奈良時代ならじだいにかけてさかんだった仏教文化ぶっきょうぶんか特徴とくちょうをまとめてみよう。

13. 天平文化てんぴょうぶんか代表だいひょうする東大寺とうだいじについてまとめてみよう。

14. 『万葉集まんようしゅう』は、どういう方法ほうほう使つかっていてあるのか、何故なぜそのような方法ほうほう使つかったのか、かんがえてみよう。

15. 仏教ぶっきょうによる鎮護国家思想ちんごこっかしそう誕生たんじょうした経緯けいいについてまとめてみよう。

参考文献さんこうぶんけん

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